覚書き

小林陽太のブログ(日曜日更新)

自己を知る

――自己を知る。

 

・・・・・・というような大切さを自覚するようになってきたのは、20代後半からだと思う。

それまで、私は12歳の冬から日記を書き続けてきたのだが、果たして日記を書く事にて“全ての自己”を言葉として紙に刻めているかといえば異なると思う。一方で、それでも自己を知っておくことは他者との付き合いの中においては、とても有意義だ。松岡修造さんも、著書『本気になればすべてが変わる』の中で、自己の取り扱い説明書を作って知る大切さを冒頭で述べられている。

 

ところで、自己を知る大切さを述べる方と先日同席したのだが、自己を知るための具体的な方法というものをお話されることはなかった。

 

自己を知るための方法・・・・・・?何かありますか・・・・・・?

日記を書くこと?絵を描くこと??録音録画してみること???

 

色々な方法があるけども、それは“現象化された自己”であり、“現象化されない自己”を知るのは極めて難しいといえる。現象化されたものだけが自己ではないし、勿論のこと人間というのは、『ホンネとタテマエ』というものがあるからに、現象化されない自己というものを抱えているといえる。

 

(↑↑ここまでが、2016年6月12日に書いた内容↑↑)

 

自己実現のしくみ

 前述までの内容をいま読み返してみれば、随分とお粗末な部分があるなと思うが、あれから私の研究は進み、また整理され、このような問題は対峙問題として扱える内容である。

 いまになって結論からいえば、自己実現のしくみを分かっていれば、この内容についての答えは簡単に導き出せるだろう。

 

 以前の記事で、

 

chisana-taiyo.hatenablog.com

 というものを書いたのだが、結局これなのだ。

 『自己実現』という言葉を「自己」+「実現」という風に分けてみる。

 すると、次のようになる。

 

自己とは何か?

  • 死のベクトル
  • 無意識が収束する方向
  • 思想(イマジネーション)する主体
  • これを追求するほど無に近似する
  • 苦しさから正しさを掴む経験
  • 謎を追求する知的好奇心

実現(表現)とは何か?

  • 生のベクトル
  • (有)意識が収束する方向
  • 行為(リアライゼーション)する主体
  • これを追求するほど有に近似する
  • 楽しさから虚しさを掴む経験
  • 証を追求する冒険心

 そして『自己実現』において、“自己は自己実現十分条件であり、実現は自己実現の必要条件である”のだから、自己を知らねば、つまりそれを追求する死のベクトルがなければ、決して自己実現など出来ないのだ。

 

 自己を知るということは、生易しいものではなく、生々しい思想そのものではなかろうか。

 

今日の一句

2ちゃんねるには事実はあまりないが、雰囲気だけは把握できる」(ある先輩)

私なんてものは無いのだ

 連日、水戸芸術館で行われている『ハローワールド展』のブックレットが手元にあり、先日はそれを念入りに読んでいた。

 

※Voice Message

VM180304-5LIVE
テーマ「ハローワールド展①」(9分)
https://drive.google.com/file/d/1qaMJ2T5NBS8J2jPB9iWiXgTYdfLuqtv6/view?usp=sharing

VM180304-6LIVE
テーマ「ハローワールド展②」(9分)
https://drive.google.com/file/d/1914oV4fFHWvYP14evoj4urnPrCHHk2Go/view?usp=sharing

VM180413h
テーマ「ハローワールド展③(批評)」(16分)
https://drive.google.com/file/d/1AM1r6eRPJcZSNPXg_NWyGq0fFks8fJE7/view?usp=sharing

 

 この展覧会の趣旨などについて、そのブックレットの後半に3人の方々が、批評を為していたのではあるが、私が展覧会に参加した日に、現場で録音したVoice Messageと似たような視点も含めた内容であった。

 要は、人間と機械の対比が大きなテーマだったのではないかと思う。

 

私なんてものは無いのだ

 そういえば、私は一体何者なのか?などと追及してしまうのは、いわゆる中二と呼ばれる部類ではあるが、本当の自分を求めて旅をしてみたり、誰かの謎を知りたくて追っかけになったり、そういうのに躍起になるのは実に心が活き活きとしていると今では思う。

 場合により、それを知的好奇心なんていったりもするが、単なるスケベな下心とか、妄想とか、そういうものから始まるのが実際の本当のところだ。

 イケメンだからその人が好きなのか?あるいは、話が刺激的だからその人が好きなのか?

 髪はストレート?目は赤褐色?

 筋肉は逞しいほうがいい?○○はでかい方がいい?

 そういうのって、その人、あるいは私なのだろうか?

 では、明日、身体障害者になってしまったり、精神障害者になってしまったりして、以前のような自己表現が出来なくなったら、その人、あるいは私は、ではなくなるのであろうか?

 

 私のいまの結論からすれば、それらは全て付属している情報であり、その情報の発信者、受信者である本人は、全く知れないし見れない部分、それは謎に潜んでいるのではないかと思う。

 だから、人間は私やあなた、そして第三者の謎を追求し始めても、結局のところそれが本当のところ、どうなのかまで突き詰めていっても、限りない無に近似して言ってしまう気がする。

 しかし、その無のような微細な静動の境地の奥に、その本人の生命が潜んでいるのであると今では結論付けている。

 

 正しく私という何かを追求しても、たどり着くのは無である。

 そして、虚しい私そのものは、ただの有である。

 

 故人の写った写真を見て、懐かしくて涙がこぼれてしまう。

 それが、デジタルネイチャーと呼ばれる、SNS等を使いこなす我々の世代であっても、何らかのメディアに映った、その人その人の姿、形、声などの情報を通して、その人を思い出す。

 人間と機械の対比というものは、アナログだけではなく、デジタルの世界でもやはり繰り広げられるものなのだ。

 

 私というものは無いのだけども、思い出すという機会、それは思想、内観、想起などを通して、私ではないあなたや第三者を経験する部分に、その本質と存在があるのではないだろうか。

 

今日の一句

「Remember(再び集う)」(英単語より)

陰陽論発表前座

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小林陽太(※ペン・ネーム)


 私の研究している、陰陽論の前座発表として、昨日、無料PDFのエッセイを一部で発表しました。

 

対象

  • 自然哲学の陰陽論に特に関心のある人。
  • マニアックな知見を求める好奇心ある人。
  • 18歳以上?の大学生とか教員とかの人。

 

 すぐに読み終わる分量だと思いますので、負担にはなりませんが、内容は読みにくくて重厚だと思います。

 研究書を晩年に部数限定で発行したいのですが、今回はその前座としました。

 今後、有料で発行したいと思っていますので、どうぞ宜しくお願いいたします。

 ※尚、数理モデルについてはまだ構築が進んでいないというのが大きいのですが、戦争等に悪用されることを防ぐために、あえて数式やそれに纏わる具体的記載を避けました。

 

ダウンロード

こちらからどうぞ。

 ※URL先は、ファイルを保存してあるGoogle Driveです。

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