覚書き

小林陽太のブログ

ジャンク品扱いされたことから学ぶこと

今日、とある古物商で取引をして思ったことである。

 

DVDプレーヤーなどを売ったのだが、店員の男性から「ジャンク品扱い」されてしまった。

このプレーヤーは、今日売る直前にパソコンに繋いで動作確認をして、綺麗に掃除をして、付属の薄汚れたケースに入ったCD-ROMを添付して売ったものなのだが、なんと30円にしかならなかった。

私はそれをジャンク品扱いされたのが、納得いかなかったので、何故ジャンク品なのか訊ねたら、困った顔して何も返答しない。

動作確認はしていた様子は全くなかったので、どうも外装の細かい傷や年式だけで判断したらしい。

確かに電化製品というのは型落ちすると、需要が一気に無くなるのは分かるが、30円はないだろう動作良好なのにと、個人的には思ったのである。

しかし、私が古物商側の立場の人間ならば、きっと儲けや責任問題を考慮すれば、ジャンク品扱いしたのではないか?

それを購入したお客が、「動作しなくなりましたよ!保証証もないし!!どーしてくれるの!?」となれば、「いっさい責任は取れません」と答えるしかない。

それでも食い下がらない、困った客ならば、損失になりかねない。

であるからに、ジャンク品扱いするのもあながち間違いではないとは言える。

 

ところで、今日私が売ったプレイヤーが「ジャンク品扱いされたことから学ぶこと」は幾つかあった。 

それは一つとして・・・、

形質(動作良好の美品)さえ良ければ、ビジネス上の商品価値がある

・・・ということ。

転じてそれは、商品(仮にそれがサービス業従事者の人間)に時間(例えば外面性)や空間(例えば内面性)など関係が一切ないのであるということ。

以前、ある経営者一族から、「人間性や中身なんてどうでもいいんだよ。ちゃんとお客様を満足させられるサービスが出来ればいいんだよ」というお話を伺った。

確かにその通りなのであるが、私は何か腑に落ちない部分もあった。(それ以前の会話の中で、この経営者に対して薄情さを覚えた部分があったからである。)

しかし、ということならば、商品として扱われる人間、即ち語像によるお化粧を交えたコミュニケーションを必要とする社会性や、マナーや実行性による結果を必要とする経済性のビジネスに携わる人間にとって、人間性や外面・内面がぎっしりと詰まっているということは全く関係がないということである。

仮に心豊やかであっても、ビジネスにはそんなものは一切関係がないのである。

いや、寧ろそのようであるならば、反ビジネス的になりかねない可能性も高い。

 

話は大きくなってきたが、先ほどのジャンク品のお話に戻すと、裏を返してみれば次のようなことも言える。

見聞きした印象の良くないジャンク品からの学びとして・・・、

(審美眼ある者、)ゴミとみえし物事の中にお宝を見出すべきである

・・・ということである。

であるからに、古物商取引においては、そのようなジャンク品の中に埋もれた、高品質で希少価値のある品を、安値あるいは破格で購入できる可能性があるのだ。

転じて、生まれつき見た目もトークも良くない人間ならば、必死にビジネス的価値観に合わせて、元々生まれつき見た目もトークも良いであろう人間に勝ることは出来ない。

であれば、逆転の発想にて徹底的に反ビジネス的な部分における養成に励むというのも一つの手では無かろうか?

勿論、ある程度のお化粧というものは、社会人としてのマナーとして必要なのではあるに違いないが。

 

そういえば、田舎という場所は、比較的そういう生き方を許してくれる。

天空と大地、即ち神々と自然を大事にする神道的な生き方、日本古来の赫き心、桜吹雪にみるような滅びの美学がある。

 

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しかし、宮崎駿監督『千と千尋の神隠し』に出てきた、カオナシが口から吐き出してしまったような、ジャンク品の数々は一体何を物語っているのだろうか?

我々は礼節というか、霊性というか、日本の心というか、やっぱり何かそういうものを失ってきたのではないかと思わずにいられない。

 

このように、「ジャンク品扱いされたことから学ぶこと」は、高く売れた安く売れたという経済的な次元だけのお話ではない。

それは、こころの持ちようにも幾分、いやかなり関わっていることなのではないかと思えてしまう私なのであった。 (述べたいことはまだまだあるがこの辺で。。。)