覚書き

陽太のブログ

恨みについて

 恨みという感情を抱いたことの無い人は滅多に居ないのではないか。かくいう私も10代後半に恨みの深紅に沈んでいた時期がある。それは、私の理想とする人が破廉恥な事件を起こしたというのを、私の大切な人から聴いたことがきっかけである。(尚、高校時代のことではない)
 今思えば、真犯人は私の理想の人ではなく私の大切な人だったわけだが、信頼していた人から裏切られたと思ってしまう無知と偏見から人は簡単に逃れることは出来ない。それは、私にとってその人が神や仏に等しい存在に思えていたからだと思う。しかし、その人は神でも仏でもなく、血の通った生身の人間だ。

 

 

 恨みというネガティブな感情の表は実は甘えだという。土井という方に、著書『甘えの構造』というベストセラーがあるが、私は大学生時代、それを大学の図書館で貪るように読んだ。同様に、ルース・ベネディクト菊と刀』を読んだのも、丁度その頃である。
 甘えとは無垢の信頼、それは幼子が親に対する緻密な恋慕のようなものである。赤子はそのような態度で接してくるわけだから、それはそれは血の繋ぐ親にとって自身の愛情を無条件に注げる希少な存在である。だが、そのような子供も思春期を過ぎる頃になれば、自我の芽生えと共に、親に反抗するようになる。つまり、恨むようになる。
 今更だが、自身を振り返ってみて、思い出してみれば、それは次のように例えられないか?

 クリスマスに親が「サンタがやってきたよ!」と言って、子供を楽しませる。プレゼントだ、クッキーを食べてくれている、サンタは居るんだ!と無垢に喜ぶ姿は誠にこれ幸いである。しかし、いつの頃か、そのサンタとやらが×××であったと知ったときの哀しみ、苦しさ、そして怒り、それは恨みに繋がるかもしれない。(私は恨んでいないが!)
 それと同様に、大人になっても人は人を恨むことは多い。大抵恨まれるのは、自分の人生に何らかの大きな影響を与える人物である。それ無しでは生きてゆけないと思えるほど“依存”している相手を恨む。つまり、これ甘えだ。そして、その裏には恨みが潜んでいるのである。

 恨みを抱く時、人は赦せない気持ちに苛まれる。赦せない、赦せない、赦せない、何が赦せないのか?その相手は恨む前はあなたにとって、最高の善人ではなかったか?なのに、一転して最低の悪人として、あなたには自覚されている。
 その人が仮に悪人であったとしても、あなたの人生に今度はネガティブな方法で影響を与え続けている。忘れられないからだ。恨めば恨むほど、忘れられない存在になるからだ。それはまるで呪いのようだ。そして、呪いを解くには“祝い”を掛けられた時間と同じくらいの長さを要する。

 私はかつて、いや今でも赦せない、恨んでいることがある。それはその理想とする人を“発端”・“きっかけ”として、私の中に潜んでいた業だったのだと今では思っている。そう、その恨みの始まりは、きっとその人が悪いのだと思い続けていた。しかし、そもそも何故そんなことで私は恨まなければならなかったのか?同じことでも恨まず傷つかず、平穏に生きる人も居る。なのに私はそれを恨んでしまった。だから、恨む相手というのは、その相手に原因があるのではなく、その相手を“きっかけ”としただけなのかも知れないと思うのである。しかも、その恨むという負の想いにより、何か其処に欺瞞を隠しているのだ。自分でも気づかない欺瞞。そう、それは自分の中の恨んだ原因に目を瞑り、相手に心理的に責任転嫁している欺瞞、そういうものが確実に存在する。
 私が恨んでいたのは、その理想の人じゃない。私が恨んでいたのは・・・、そう、“私の弱さだったのではないのか?”ということである。

 犬は恐怖を覚えると、人に対しても吠える。明らかにその人を恨んでいるのが分かる。でも、人間としての私から見聞きすると、そんなことで怒るなよ、赦せよ、と言いたくはなる。そして、犬の弱さに目が向く。それは、自己を省みることの出来ない畜生としての姿。自己を葛藤することの無い、精神性の無さ。人間にはその精神性が存在する。これが、犬と人間を別つ大きな違いだ。

 人が人を恨む時も、結局、半分畜生なのだと思えてしまう。弱さだ。自己を省みる視点の無さ、自己の未熟さを見つめることの出来ぬ弱さ、そういう部分が必ずある。そもそも、相手も人だ。自分と同じ、過ちを犯す人間だ。その弱さを認めることの出来ない自分の不寛容さ、あるいは自他の区別の出来なさ、そういう存在としての脆さがそこにあるのであるに違いないのだ。


 恨み続けて良いことは無い。その後遺症は恨んだ歳月と同じ期間を要して癒してゆかねばならない。そのことを、私は当時知らなかった。そして、その恨みを正当なものとして自分の中の拠り所にしている所が今でもある。・・・実に不健全だ。人間臭さといえば、それもそうかも知れぬが、出来ることならば、その恨みを何か芸術的なことなどに昇華させたいとは、常々10代の頃から思っていた。
 恨みは決して人を幸せにしない。そして、恨めば恨むほど盲目的になってゆき、地獄の心に通じてゆく。それは強さではない。恐怖なのだ。

 無垢に信頼できる幸せもあれば、そんな依存的な自身の状態から立ち上がり、自己を信頼できる状態、即ち自立という幸せもあるのである。いつまでも、いつまでも恨み続けているのは、それは自立とは決していえないのかも知れない。恨みを支えに生きれば、まるでイスラム国ISのテロリストのようなものに変わりかねない。その怨恨の衝動を自身に向け続ければ、鬱病などになって自殺か。
 この恨みの構造を知ってゆく道のりは、それはそれは遠いものであるが、結局の所、どこに帰結するのか。

 いつも恨まれる者は、恨む者よりも神に近い者だ。同様に、いつも甘える者は、甘えられる者より獣に近い者だ。これは単純な構造ではあるが、知っておいては損では無いだろう。獣に自身を置き続ければ、甘えて恨む存在へと成り果て、神に自身を置き続ければ、甘えられて恨まれる存在へと変わり果て・・・、・・・人間というものは、この二極に跨って暮らしている存在なのである。
 今の私にはここまでしか言えない。ただ恨み続けて終える人生だけは、送りたくないものだとは10代の経験から未だに強く思うのである。

 そして、“この世の人間”が結局恨むことから逃れられないのは、この世界を創造した神、即ち生を与えし者、無人格の何か、それはSomething elseなのだから。それでも、それはいついかなる時も、この未熟な私達人間を「赦して」ただ存在していてくれるのである。

 


Portico - 'Where You Are feat. Jono McCleery' (Extended Version)