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覚書き

小林陽太のブログ

三施について

 今日のテーマは「三施(さんぜ)」について。

 

 三施とは私が造った言葉である。生活をする上で、重要な“態度”であり、この3つが自然に出来る状態は“徳がある”と一般に呼ばれる状態である。(正確には徳が降りてきたともいえる)

 三施とは、素直な心持ちにて(古神道的には直霊に従う状態)、“謙虚・感謝・行動”の3つを為すことであり、私の思想では“時空・語像・形質”の三相に対応した生活習慣のようなものである。この三施を身に付けて自然に為せるということは、スムーズな人間関係を運ぶことに繋がり、“家庭・学校・会社”で上手く物事を運ぶ上で大事。(と、察している。)

 

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三施が出来ていない状態

 ところで、三施における謙虚・感謝・行動が大切だということを頭で分かっていても、為せないとするならば、それは何が原因なのか?それは、“傲慢・当り前・煩い”に自己を置いていることが一つの見方として、原因となってくるのではなかろうか。

 傲慢であれば謙虚ではない。当り前ならば感謝はない。煩うならば行動はない。このような姿勢を「不三施(ふさんぜ)」とここでは名づけたい。

 

 謙虚なき所に神々との縁、家庭の幸せ、聖職や学芸的なる生・幸の生活はない。ゆえに、幸福たる時空には恵まれず、文化音痴となり才乏しき人生となる。これを「傲慢」な態度と呼ぶことにする。

 感謝なき所に人間との縁、学校の幸せ、教育や福祉的なる善・得の生活はない。ゆえに、幸福たる語像には恵まれず、社会関係音痴となり脈乏しき人生となる。これを「当り前」の態度と呼ぶことにする。

 行動なき所に獣との縁、会社の幸せ、医療や救命救急的なる快・有の生活はない。ゆえに、幸福たる形質には恵まれず、経済音痴となり財乏しき人生となる。これを「煩い」の態度と呼ぶことにする。

 

三施ではない通常の状態

 一方で、この「不三施」と似た態度として「非三施(ひさんぜ)」というものを考えたい。非三施とは三施をしないのではなく“出来ない”態度、それは例えるならば、睡眠中、“施”は出来ないのであるからに、このようなプライベートでの“独り”の時の姿勢を非三施と捉えてみる。つまり、プライベートとは「非(あらず)」の状態であり、ビジネスとは「非非(ある)」の状態であるとするならば、内向性を発揮している状態とは“非”即ちプライベート、外向性を発揮している状態とは“非非”即ちビジネスの状態であると一般には言えるかもしれない。しかし、決してプライベートの状態が“不”なわけではないとするためには何が重要になってくるのかはいまいち分からないが、私が察するに自尊心Self-Esteemの状態、即ち波長λに依存しているのではないかということである。

 

 難しい用語を出してしまったが、要は素直な心持ちを保ち続ける、つまりは上述の自尊心を低下させない努力をするということ、例えるならば、“こころの持ちよう”を常に最適化させるという努力が鍵となってくるのではないか?

 

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こころの持ちようの最適化

 私はセルフケアを前提としてそれを考えているのだが、この自尊心の低下、即ちこころの持ちようを最適化させられているか否かの上述のような判別項目というものについて今後、私の哲学研究における教義の「陰陽之研究Yinyang Thought」としての「人間学」として、色々と実践や修養を通して研究してゆきたい。(この小見出しの内容については、研究が進んだ後に加筆したい)