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覚書き

小林陽太のブログ

岩戸の中の恋人(短編小説)

学芸

Short × Short小説 「岩戸の中の恋人」 (文:小林陽太 / BGM:プリンス)

 

 ――あれから、どれほどの時が流れたのだろうか。
 俺と理枝は、再びこの地で幾ばかりかの時を共にした。周りの客諸々が、今を彩るここんの者の様に思えた。

  「喋れる内が華かしらね」
 手元の食事の済んだ白い皿に写る食卓の照明。その光を俺は俯きながら覗くと、再び白粉を塗った彼女の艶のある黒い眼を見つめた。
 「……欲するものが無くなることほど、不幸なことはない」
 すると目の前の愛しいはずの彼女が、急に醜悪な程に憎たらしい顔をして、俺の顔面に手元のお冷を落涙の如く振りかけた。
 「私を、私を、……そうやってあなたは裏切ったのよ!そうやって、あなたは私の前から去って行ったのよ!」
 「…理枝。すまなかったな」
 今度は財布から五千円札を抜き取り、彼女は目前に捨てるようにして置いた。札に写った樋口一葉の顔が、その時一瞬憤怒の形相に見えた。俺は下腹部から吐き気の様なものが上がってくるのを覚えてから、彼女に深々と頭を下げる。それが益々の不届きを覚えさせた様で、彼女は手持ちの白帆で出来たトートバッグを振り回す様に肩に掛けてから店を出て行った。
 俺はその後、煙草を幾本か吹かし、店の窓の外に広がる裏庭、虚空の闇夜を見つめていた。そして立ちあがると、彼女が捨てたその札を店員に渡す。しかし、釣銭を受け取る手は何故かただただ震えていた。俺はもう何か、何か、それは既に人間ではない何かになってしまったのではないかという慄きを覚えて、均衡を欠いて事故をしない様、予約を取っていたホテルへ冷徹な理性で車を走らせる。備え付けのカーステレオからは、プリンスの『イフ・アイ・ワズ・ユア・ガールフレンド』の悲響が木霊し、二本のワイパーが規則正しく雨滴を拭っている。国道を走る車は、昼間の乱戦からは想い及ばぬほどの疎らな流線を描き、赤と黄、赤と黄、赤と黄と、信号機が点滅を重ねていた。理枝の叫喚、しかしそれは理枝の心だけではなく、その淵源では俺の心そのものだったのではないかと今なら思える。
 歓楽街の裏にあるホテルに着いてから、受付の男性が出迎えたのだが、訝しげに俺の顔あるいはその背後に広がる、その何か、人外の何かを見つめてから、チェックインを執り行った様に思えた。
 通路を苦渋の心持ちで歩く俺は、205号と書かれた木製の古びれたドアを開ける。そこにはベージュのカバーの掛けてある、セミダブルのベッドがあった。目の前の鏡台と、粗末な装飾の施されたルームライト。そして、十六インチのテレビが俺を見つめている。
 ベッドの上に荷物を置いてから鏡台の椅子に坐っていると、その何か、その何かが俺を背後の虚空から見えざる手を伸ばし、首根っこ辺りを擦った。すると、獰猛な何かが腹の底から溢れ出して、肩を揺らす様に幾度となく過呼吸を催し、俺は余震に見舞われている部屋を歩くかのようにして、化粧鏡のある備え付けの洗面器に向かった。
 下腹部から得体の知れぬ轟が何度も何度も押し寄せては、目の前の洗面器の中に三、四の嘔吐を流した。化粧鏡に映るその人間、その人の皮を纏った、血みどろの幼子がそこに確かに映っている。
 流水で顔を洗った後に口の中も何度か濯いだが、胃液の混じった香味野菜の様な食材の味は消えること無く、俺は狂ったように手持ちの紙に鏡台の引き出しの中にあったペンで、己の贖罪を殴り書きし続けた。そして、声にならぬ声で呟く。
 「理枝……。理枝……。理枝……」
 血眼の童子が紫紺に染まる。眠れぬ夜は、明けの明星を待つまでには余りにも長すぎた。悠久の時を過ごすまで、人はこの地を彷徨い続けなければならないのだろうか。
 ――いつの間にか、目が覚めていた。俺は人として、人と共に生きたいと、娑婆へと細い足を運ばせた。

 

(了)

 


prince - if i was your girlfriend.wmv

 

※サイト「小説家になろう」2011年9月1日、発表作品。

上記のBGMは、文中掲載の『Prince / If I Was Your Girlfriend』である。