覚書き

小林陽太Yohta_Kのブログ

幸せ

 「・・・幸せですか?」

 先日、こんなことを訊かれた。私はそういう質問を何度か受けたことがあるから、困ることなくこう答えた。

 「半分&半分ですね」

 まるで、ピザの注文を電話越しにするときに「ハーフ&ハーフでお願いします」と言うような答え方だ。

 

 

 幸せか不幸かなんて、本当に幸せや不幸と向き合えば向き合うほど、白黒付けられない物事なのだということに気づくものである。そして、他人から見聞きして幸せか否かなんてのは、案外当てにならないものなのだ。あえて言うならば、その他人が幸せな人だったならば、「はい、幸せです(あなたと居れて)」となるかもしれない。

 または「幸せそうだな!」とか「不幸そうだな!」とか指摘してくるような人間と一緒に居て、幸せというものは経験できるものではない。幸せというものはもっと落ち着いた心境のことで、それは快感のように刹那なひとときで終えるものではなく、もっと持続的な“意志”を伴う物事だ。

 そして、幸せかどうかを測るバロメーターとして、一人のときの沈黙が苦痛ではないかである。一人で居る時に一人で居ないような、心の中に沢山の人々が居るような心境というのは、よくもわるくも幸せだと私は思う。

 そうなのだ。つまり幸せというのはどうも一人では完結せず、経験できない物事のようなのだ。何かとても不思議だ、幸せというのは与えられる物事だと思っていると、それを経験出来るのだけども、年々思うのは、どちらかというと幸せというのは与える側が噛み締めている物事なのではないかということである。

 話は戻るが、幸せというものが他者との繋がりの中で経験できる物事だとするならば、互いに幸せで居られるかどうかを測るバロメーターは、“共に居る時の沈黙が心地よいか”ではないかと直感的に思う。

 絵空ごとでも、飛ぶしかない夜ではないが、究極的にはベッドの中で二人で眠れるかみたいな感じなのだろうが、心身繋がっているあの感じが幸せというものなのかなという気がする。

 また、あるいは同じ地面の上に立って、同じ夜空や夕日を見つめながら、脇の林からは小鳥の囀り、そして風に揺れる稲穂が擦れる音などを聴きながら、沈黙して居られるような、そういう時間と空間が共に持てるのは、本当に幸せだと思う。

 

 

 幸せは決して掴め取れるものではないが、それを形にすれば嘘でも本当になる。そんな時代が続いたのは、かつての高度経済成長からバブル終焉までではないだろうか。

 90年代後半の音楽シーンは、小室哲哉の曲が流行した。其処には、原点に回帰したいという欲動のようなものが垣間見れる。

 


globe / 「FACES PLACES」(主演:新川優愛)

 

  信念を持って生きてきた。互いに異なる顔が一つに交差するスクランブル交差点。繋がり、絆、そして一人ひとりの孤独。

 幾つもの顔と場所には、それぞれの物語Storyがある。それを一つに、全てを一つにするのは、きっと本当の意味での「幸せ」だけなのだ。

 

 辛さと幸せは紙一重。人と人が共にあるということは、そういうことなのだろうと、今でなら、ふと思えるのである。

 

 

Yohta KOBAYASHI (C) 2016-20XX