覚書き

小林陽太のブログ

縁を繋ぎ続けるもの

 人の縁というものは、そこに収束源、即ちゼロ(0)が無ければ繋ぎ続けることは中々難しい。この同一のリアルに生きていても、我々は皆それぞれその一人ひとりが持つ、時Timeと場Placeが実は異なるからである。

 先日、「河の流れのように」の中で、次のような小文を載せた。

 

'Do not have a goal, should have a purpose again.' 

完成を目指すより、(これからは)目的を持つべきである。

 

 これは自分への戒めなのであるが、私がかつて描いた絵に、以下のような絵がある。

 

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My Life (アクリル, 2005)

 

 これは、私が学生時代に描いた絵なのだが、心理学における検査で使用される『バウムテスト』のようなモチーフを基に構成された絵である。

 家は人生の始まり(生まれ)、道は人生、木は人(あるいは伴侶)、蛇は性欲・愛欲、山は困難や課題、太陽や月は人生の終わり(人間としての完成?)を表しているらしい。

 いま思えば、この絵は随分と寂しいものだなとさえ思えたりする。私は確かにこの絵のような人生を今まで歩んでいるのかも知れないが、人が一人しか出てこないなんてのは、まさに同行二人だ。

 

 先日から、私はずっと「人と会っていない。人と会っていない・・・」と呟くことが多い。この原因は実は最初に記述した、人それぞれが持つ時Timeと場Placeが異なるという部分に繋がってくるのであるからに、原理上仕方が無いともいえる。だが、それがゆえに私は人との縁を繋ぎ続けることに何のこだわりもないのであるが、それでは一向に孤独Solitudeに陥るだけだと気づいた矢先であった。

 私は私自身の完成を目指すための人生を今まで歩むことに専念していた節があったが、それは違うのではないか、これからは完成ではなく目的Purposeを持って人々と集うという方向で生きてゆくべきではないかと思うに至った。

 学生時代に、体育祭や文化祭というものがあったと思うが、クラスClassmatesが団結し一つになるのには、ひとえに共通の目的Purposeがそこに設置されたからではないか?一人ひとりのクラスメイトの夢や現実は異なる。しかし、同じ目的Purposeをそこに設置すれば、一人ひとり異なる人々が、互いに協力しあってそれを通して集い、技術や知恵を持ち寄り助け合って何かを成し遂げるために、“傷つき気づけ”あう経験が出来る。

 

 ひとり一人個性異なる人々が、縁を繋ぎ続けるもの。それはきっと、共通の夢や現実を掲げること、スローガンを掲げることではない。それはきっと“目的Purpose”を持つことだ。夢や現実なんて持たなくてよい。今ならただそう思える。それが、いわば理学的な意味での“TPO”に近似する。

 

Time, Place and Occation.

 

 嗚呼“Time”、それは男性性。また“Place”、それは女性性。そして“Occation”。即ちそれは収束源。その『機会』が無ければ、人と人は傷つけ気づきあうために経験しない。 偶然の機会を『縁』というならば、必然の機会を目的Purposeと呼んでもいいのではないか。社会レベルでいうならば、それが経済Economicsというものなのかもしれないと今なら思える。

 

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Notitle (ペン・鉛筆、2006)