覚書き

陽太のブログ

見識の変化

 最近のペットボトルのお茶って美味しいなと思っている、特に抹茶入り。


Teguh Sukaryo plays Mompou's El Lago from Paisajes

※上記はFedelico Mompouの私が特に好きな一曲から。

大人の条件

 先日、ちきりん的“大人”の条件 - Chikirinの日記という記事を読んでいて、「大人の定義って人によって色々だなぁ~」って思っている。

 一般的には、

  • 経済活動をして自活出来たら・・・。
  • 親の立場になって子供を産み育てたら・・・。
  • 責任と共に自由を手に入れたら・・・。

 などなどが散見されるのかなと思う。

 すると、私はいつまでも大人になれていない人間となる。(表向きは・・・)

 『極端な自由を欲する人間は喜びを経験したことのない人間である』という格言もあるように、中々難しいものではある。

 

見識の変化

 大人になったっていうのは、私は(私の、時にダレソレの)経験再解釈できること、つまり認識が高くて深くなることだと思う。

 また、それを再構築できることではないかと思っている。

 つまり、ここでいう再解釈とは(私のいう聖俗職によって)自立する姿勢にこそ可能であるものであり、再構築とは(私のいう一般職によって)再依存する姿勢にこそ可能になるものであるということだ。

 であるがゆえに、見識の変化(こころと世界との関わり方の変化)にこそ、大人になったといえる真実が見出せるのではないかと思う。

 

 例えば、こどもの頃に友達の頭をぶって嫌われた経験があるとする。

 そのこどもの頃は、その友達が悪い奴だと思ったからぶったのであるが、今になって振り返ってみると、その友達の誠実さを疑ってそんなことをしてしまったのだと気づくというような認識に変わっていたりする。

 そして、よくよく考えてみれば、そのこどもの頃の自分が不誠実だったというところに原因、弱さ、大人ではない何かがあったのだと気づけるのならば、少なくともその頃の私よりもたった今の私の方が大人になったといえるのではないかということだ。

 

 であるからに、このような見識の変化、その認識の高まりと深まりにこそ、内面的な大人の特徴が見出せるのであって、その見識の変化と共に外面的な行動を改めてゆくというその修養と実践の姿勢にこそ、大人、いや大人に近づいてゆくための道のりがあるのではないかと思えるのである。

 これからいえることは、大人になるということは永遠に続く道であり、V.E.フランクルが下記の著書群で述べるように、

  • 意味を求める人生なのではなく、人生が意味を問うているのだ。
  • 物事を(多次元)多元的に解釈するべきである。

 といった、部分が見出せるのではないかと、今なら思えるのである。

 

夜と霧 新版

夜と霧 新版

 

 

 

意味への意志

意味への意志

 

 ※上は学生時代に、下は講師時代に読んだもの。

 

 大人になるとは、結局何なのかよく分からない。

 ただ、分かりやすくいうならば修養と実践に本気になって励み続ける姿勢にあるのではないかと思う。(つまり“いい経験”を積み続けるということ

 そこに生計を立てて家族を養うほどの対価や評価が付いてくれば、それは後輩達に道を作ることが出来たという証ではないかと今では思う。

 


詩吟 近代詩「道程」 高村光太郎

※関連する内容の詩となります。(了)

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