覚書き

小林陽太Yohta_Kのエッセイ

好きに生きる⑥

秋に近づき、秋雨でしょうか?しとしとと頬濡れる涙のような日々が続いております。
といっても、悲しい日々ではありませんが、色々と「好きに生きる」難しさのようなものについて思う日々であります。

 


青葉市子 - 雨

(私の敬愛する、青葉市子さんのPVから♪)

 

 

chisana-taiyo.hatenablog.com

 
上記は前回の「好きに生きる」シリーズの記事。

これまで「好きに生きる」シリーズを書いてきたわけですが、無理とはいいませんが、ちょっとその定義といいますか、何といいますか改めなければならないと思う件があり、こちらに記載。
以下の記事では「仕事・交際・習慣」を変えろと書いたのですが、これはやはり本当だと。

 

 

chisana-taiyo.hatenablog.com

 
特に交際については、どんな人と関わりながら時と場を継続して過ごすのかということが非常に自己のこころや暮らしについて大きく関わってくるのだという実感が、ここ数ヶ月ありますね。
例えば、いまライターの仕事もしているのですが、発注者やその発注された文章のテーマによって、こころというものが一刻一刻と変化するのが感じられるのです。
発注者の方がビジネスマンで忙しい方ですと、案件におけるテキスト上でのやりとりがやはり雑であることが多いです。
また、文章のテーマが例えば「偉人の格言のまとめ」などだと清清しい気持ちになりながら集中して取り組めるのですが、「不倫について」などだと荒んだ気持ちになるのは何故なのか気づいてしまったりします。
それは、一重にいま落ち着いた暮らしをしているからといえるからかも知れませんが、そういうこころの一刻一刻の変化にこれほどまでに敏感になれるのは、人と人というものは、例えリアルで共に過ごしていなくとも、裏で何か繋がっていて、そういう縁や気持ちというものが生じては滅し、生じては滅ししているのではないかと強く思わさせられます。

 

以前、ある団体の友人から、「あなたのために祈っています」という風にいわれたことがあり、「いやいや、結構ですから……」と私は答えたのですが、やはりそういう祈りの力といいますか、誰かを思いやる気持ち、そして同様に裏を返して恨む気持ちというものも、やはり(遠隔で)繋がるものなのかなと今では強く思います。
でありますからに、もしも自己のこころや暮らしが荒んだものになっているとするならば、身の回りの人間関係や裏での繋がりをよく察して、改善してゆくことが大切なのではないかと今では無根拠にただただ思いますね。

 

詩人のあいだみつをさんが『しあわせは自分のこころが決める』というようなことを述べていますが、あれが本当だというのは昔から知っておりました。
ただ、そのこころというのは自己の努力だけではどうしようもない人や時や場というものがあるのだということも何となく見えてきたかなと思います。
もし、いま幸せだという人が居るとするならば、多くの人からその幸せを願われている人なのかもしれません。
だから、どんなことがあっても例え自身が不幸だなと思うことがあっても、幸せになるように行動し、「仕事・交際・習慣」を見直し、「自ら幸せを発信し願ってゆく人」になってゆくことが大切ななのかなと、ふと思えてなりません。

「好きに生きる」ということは、欲望に忠実になって生きることという部分も在るかも知れませんが、それは幸せのための必要悪、必要条件のようなもの。
以前の以下の記事で、

 

chisana-taiyo.hatenablog.com

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(自身のトラウマだったので)不倫について激しく糾弾した内容を書きましたが、それもときに必要悪、必要条件のようなもの。(ただ、不倫は隠し通すのが筋だと今でも思います。また、ここでいう「不倫」は広義の意味が強く、不倫理のことです)
大切なことは、人と人の繋がりを良いものにしてゆくことであり、その上で「仕事」や「習慣」を、よき暮らしのために長期形成してゆくことが、本当の意味で「好きに生きる」ということなのかなと強く、ここ数日感じています。

 

今日の一句
「健康とは、からだではなく、心が健やかなことです」(医師 日野原重明

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