覚書き

小林陽太のブログ(日曜日更新)

時代の流れ

雨降りが続いている……。

晩秋の夕焼けが肌に染みる季節となった。


CLOW「スクロール」MV

(今回の記事にとても関連する内容♪)

レンタルCDショップがなくなる? 

先日、所用でショッピングモールみたいなところに出掛けていた。

そのモールの中には、CDをレンタルしたり、雑誌や書籍を購入できる娯楽店があり、その待ち時間に物色していたのだが、あることに気づいた。

 

私は30代なのだが、いまから18年前ほどは全盛期だった、それらのレンタルショップ。当時は、国内ミュージシャンのCDの売り上げもミリオンセラーが多数排出されていた時代である。

B'z、globe、安室奈美恵SMAPなど、みんなこぞってレンタルショップに足を運び、聴いていたと思う。

 

しかし、2017年現在のレンタルショップは18年前とは異なり、閑散としていた。

何か活気がないというか、CDやビデオの本数も妙に少なくなった気がする。

それもそのはずで、今やネット配信の音楽や映画を見るのが当たり前になった時代だ。

よくよく考えてみれば、デジタルのものをわざわざリアルの店舗まで足を運んで借りに行く方がおかしいとさえ今では思える。

だが、まだ実労働社会はメールなどで連絡した内容を印刷し、ファイルにまとめたりするおかしな風習も残っている。

 

駄菓子屋に小中学生はすでにいない

3ヶ月前ほどに、地元の駄菓子屋に顔を出し、店員のおばちゃんと小一時間ほど話していたのだが、今では小中学生が駄菓子屋には来ないで、みんなコンビニに行くそうだ。

確かに、それらのコンビニにはイートイン・コーナーなどが常設されており、小中学生がたむろしていたりする。

それもそのはずではあるが、Wifiが整備されているから、携帯ゲーム機やスマホ片手に友達同士で遊んでいたりするのである。

もちろん、コンビニには駄菓子も売っているし、鮮度の良いアイスクリームだって、焼き鳥だって、なんだってある。

 

しかし、コンビニには駄菓子屋のあのおばちゃんは居ない。

あの駄菓子屋のおばちゃんは、誰にも代替できないし、もし、あの駄菓子屋のおばちゃんではなくロボットが店員だったら、あの駄菓子屋には行きたくない(時に行きたい)。

あの駄菓子屋の店員が、あのおばちゃんだから行きたい(時に行きたくない)のであって、マニュアル化されたコンビニとは基本的に異なるのである。

 

田舎もんが東京へ行って

先日、ビジネスの関係で六本木に足を運んでいた。

東京を歩く人々はやはりビジネスマンが多かったが、みんな基本色を元にした格好、みんな同じデザインのスーツを着ていた。

なにやら優雅にビジネス会話を楽しみながら、ときにパソコンのワープロ入力に忙しく、カフェで過ごしていたりした。

 

ようやく目的のビジネスのやりとりをする流れとなり、担当者と2時間ほどあるプロモーションに関する談話していたのだが、あることに気づいてしまった。

それは、いまやビジネスというものはデジタルなしには成立しないものとなっていること。

デジタルの基盤、つまり電気やITインフラなしには成り立たない、自動化や規格化が進んだものとなっているということ。

もちろん、都内の地下鉄やJRだってすでに数十年前から機械やロボットが多くの定例業務を担ってくれている。

きっぷを買うときだって、改札を通るときだって、車内の掲示板だって、もはや機械・ロボット・AIなしには考えられないのである。

 

田舎への帰り道、また別のカフェのテラスに居たのだが、そこでまたあることに気づいてしまった。

テラスに居たある女性客が、アンドロイドのロボットに見えたことだ。

容姿だってわるくはないし、都会風の価値観をもった方だろうか?だが、アンドロイドに見えた。

また、振り返ればその日、談話していたビジネスマンもアンドロイドには思えなかったが、都会のビジネスマンたちが、まるで映画「Matrix(マトリックス)」の住人のように思えたのである。

 

I love you より I need you

前記のように、私はなにか物悲しさを覚えている部分がある。

それは、「私にはあなたが必要です」という人間としての確信的な部分。

日常の暮らしの大方は、間違いなくこれから自動化や規格化が進んで、我々はデジタル家畜化されてゆくのだろう。

 

 

chisana-taiyo.hatenablog.com

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それらのシステム(系)を制するものが、今後、MicrosoftFacebookAmazon楽天などのCEOのように、いわゆる一握りの富俗層となってゆくのかもしれない。

しかし、我々が本当に人間ならば、「私にはあなたが必要です」という、そういうかけがいのない愛や、ときに性のような部分に人間としての本性のようなものを見出せるのではないかと思う。

 

先日、ある匿名掲示板で、「I love you よりも素敵な言葉は何ですか?」みたいな質問を受けて、私はこう答えていた、「I love you よりも素敵な言葉は、(いまや)I need you」ですと。

若者の恋愛離れが叫ばれて久しい世の中だ、また結婚や子育て、そういったものからも縁が遠い世の中になってきている。

それは一つに、経済的な貧困が理由とされていることが多いが、実は統計や過去の資料などの精査によって、否定されていることが分かっている。

しかし、実はその本当の所は、「私にはあなたが必要です(I need you)」が、どんどん失われてきたという部分にあるのではないだろうか?

 

完璧な作業や莫大な知識には、機械・ロボット・AIに人間は今後勝れない。

ビジネスやパブリックの価値観における、あらゆる活動はそれらには決して勝れない。

そうなってきたときに、人間にしかない部分を突き詰めれば、パーソナリティやプライベートの部分にしか、今後、その本質や存在は見出せなくなるのではないかと強く思えるのである。

 

I love you がいえる勇気も必要だが、I need you と思える部分も必要だと今では思える。

多分、未来はアンドロイドのロボットが、I love you って言ってくれる時代になるだろう。

それに気楽さを覚えて、I need you って思うのに慣れるような、そんな人間に自分もなってきていることに気づいてしまった苦味を忘れたくはない。

 

昨夜、近所のコンビニの店員が常連客にこう言っていた。

「大福買えよ、ばかやろう!」

人と人の間の距離や頻度(いわゆる脈あり)や、有機性に由来する不合理性には、その I need you が特に表れる気がした。

Yohta KOBAYASHI (C) 2016-20XX