覚書き

小林陽太Yohta_Kのエッセイ

いじめにはけじめを

 ここ数週間、"曖昧にしていいこととしてはいけないことの境目”について悩むときがあった。

 そして、過去を振り返ってやはり次のような結論が出た。

 

 

https://twitter.com/sonsensunsinsan/status/953925424127533056

 端的に言えば、「いじめにはけじめを」というお話である。

 

いじめのメカニズム?

 いじめ加害者は快楽にて損害を対象者に齎す。

 その被害者は不快を経験するわけであるが、その不快はその加害者の自覚出来難い深層の無意識にある恨みのような物事であり、一般には業(カルマ)と呼ばれる物事なのではあるが、それを被害者に無意識に転嫁しているのである。(これを心理学の基礎用語では『投影』という)

 だから、加害者はその瞬間、自分の恨み(不幸)を忘れられて幸せをダイレクトに、つまり快楽として経験することが出来るのではないかというお話だ。

 

 その深層の無意識の最下層に近づくと、いわゆる「集合的無意識」という、心理学者ユングが提唱した領域になる。

 この領域には、私の研究基板上での定義によると、日本語では憎悪(死)と呼ばれる感情が眠っている領域であり、一般的には決して自覚しがたい領域である。特に覚醒状態にて、その深層の更に深層にある、この霊的領域に対峙することは非常に困難ではなかろうか。

 ただ、稀にそれに覚醒状態のまま対峙出来る者が居り、ユングはその一人でもあった。一般に人口比、約16%未満の者たちは集合的無意識まで到達させることは難しいと思われるが、そのような覚醒状態のまま、ある種の鬱状態に陥れる個人的無意識の深層までは到達出来る者がちらほら居ると、私は察している。(尚、覚醒状態のまま集合的無意識まで到達できるのは人口比、約1%前後だと踏んでいる)

 

 勿論、これには科学的根拠はない。そもそも心理学にエビデンスを求めることも難しいのではあるが、無意識を科学的に扱うというのは非常に困難極まりないのである。

 ただ、形而上学(Metaphysics)のある一派としては、取り扱いが可能であると思われるからであるに、私はそれを結局12年も続けてきたわけであるが、またそれが私の使命というか宿命であると察しているからでもあるが、今後も努力を重ねてゆきたい。時々、酒や煙草、そして人に溺れながらも……。

 

再び話は戻り……

 再び、「いじめにはけじめを」というお話ではあるが、いじめは私は人類から無くならないと思う。

 それは、人類から戦争や恋愛が決して古今東西無くなったことが無いように、人為的操作は不可能だと思っている。それが可能なのは一重に、もう神々の領域だし、また人として生まれてきたのに生き仏として暮らすのも困難極まりないという部分にも繋がってくる。

 必要最低限の社会における対価や評価が無くては、人は人としての尊厳を保ち暮らすことが難しいという部分にも繋がる。勿論、対価や評価の正体を知りながら、それを支配出来る者はごく一握りだと思うが……。

 人は対価と評価を所有したがる(持ちたがる)が、支配したがろう(在りたがろう)とはあまりしない。今の私からすれば、対価や評価は確かにこの「社会」という系(システム)の上では、ある程度必要なのではあるのは身に染みる部分もあるが、この系(システム)の中で、それらだけに血眼になって暮らし続けることほど虚しいのはない。(例えるならば、宮崎駿千と千尋の神隠し』の湯場でのシーンを思い出して欲しい)

 

 いじめの領域とは、刑法で裁かれる事物がある領域である。

 いじめとは、人間の必要条件であり、十分条件ではない。

 いじめはプライベート(私)では、甘えあいやじゃれあいで済む話にされやすい。

 しかし、いじめはパブリック(公)において、法で照らされる何かである。

 

 このように、公私混同が発生しやすい学校などの世界では、起こりやすい案件ではあるが、それに切り込み、説得力のある回答は未だにない。

 しかし、仏教的に言えばいじめとは欲にまつわる案件なのであり、無意識化されているから、決して本人は有意識的に自覚するのが難しく、第三者の方がそれを客観的に見聞きすることが出来ることもあるものである。

 これらのいわゆる、非人間的な意識領域、例えるならば、哲学者ケンウィルバーの述べた「前個」の自他未分化の霊的領域のお話については、心理学が扱う内容だ。

 

 これからも、そういった自己の研究における心理学的なアプローチについてはよくよく試行錯誤してゆきたいものではある。

 そして、いじめの被害者は仮にそれが公人として、社会人として、その尊厳を保つ決意があるならば、それにけじめを法的につけるべきなのである。

 仮にそれが、法治国家でなくとも、あるいは無法の組織(家庭・学校・会社)などであっても、人としての尊厳を保つためには、やはり「いじめにはけじめを」付けなければ、どこかで一線を引かなければならないのではないだろうか。

 

 加害者は無自覚なその原因を察する努力を。それが内観である。

 被害者は自覚するその結果を察する努力を。それが行動である。

 そして、人間社会の時と場とは、その両者が入替わり立ち代る坩堝(るつぼ)といえよう。

 今日の加害者は、明日の被害者で、明日の被害者は、明後日の加害者。

 だから、人間関係はとても楽しく、苦しく、日が昇り、日が沈み、月が映り、月が欠けてゆくようなお話に似ている。

 

今日の一句

「和して同ぜず。(One must draw the line somewhere.)」(孔子)

Yohta KOBAYASHI (C) 2016-20XX