覚書き

小林陽太のブログ(6月に閉鎖予定)

一人で生きている人などいない

私の尊敬するDJあおいさんの最新ブログ記事に、次のようなものがあった。

 

djaoi.blog.jp

 

これは実に結果的にそうだとしか言いようがない正論である。

自分の人生を始めて生きてゆくためには、前回の記事にもあったように、

 

 

chisana-taiyo.hatenablog.com

 

ということと繋がってくる。

結論からいえば、行動・行動・行動の日々の中で、自分を忘れて暮らしてゆくことが「生きるということ」、それが社会化に近いのではないかと思う。

 

昨日の土曜日、あるショッピングモールに行ったら、子供連れの家族で大混雑していた。

人はみな、子供を産み、育て、ただただ生きることに熱心なように感じられた。

恵方巻を購入するために、沢山の人たちがレジに並んでいた。

しかし、私はそこに以前、東日本大震災のときに抱いたある違和感を抱いた。

 

生を謙虚に見つめてみる

 

人は直接的にではなくとも、必ず他者の協力によって生かされている部分がある。

東日本大震災を経験した私は、ある近所のコンビニに水を買いに行った際に、とんでもないことに気付いてしまったことがある。

コンビニに多くの人が水や飲料などを求めて群がって並んでいたのだが、ほぼ誰一人として臨時営業しているコンビニの店員に「ありがとうございます」と言わなかったのだ。

私はレジの列に並んでいたのだが、前の前のお客が当たり前に商品をレジに出して、店長か副店長か分からないが、現場の責任者のような男性がこう怒りならが呟いていたことをふと思い出す。

 

「なんなんだ!?なんで誰も礼の一言も言わねぇんだよ!」

 

と。

私はその違和感にそのつぶやきを通して気付いたのだが、まるで何かの家畜がレジに行列をなしているように見えたのだ。

その後、その男性はそのコンビニを辞めてしまったようだ、きっと別件でも何かあったんだろう。

店長候補募集をその後していたのを昨日のことのように覚えている。

 

それで、昨日のショッピングモールでの話しに戻るが、やっぱりレジに並んでいる親子連れの皆さん、休日だろうからだろうか、奥さんはファーのコートなんか着ていて、お父さんは爽やかなスポーツマン風、子供も現代っ子のようなお洒落な感じだった。

しかし、レジの店員はみんな薄化粧などで、仕事用のエプロンをしながら、必死豆炭のようすで、一生懸命休日のお客さんたちを捌いていた。

その様子はまるで、ロボットを演じなければならぬ「真性の人間」に私は見えた。

きっと、仕事を終えてくたびれてから、家に帰って、酒や煙草でも嗜みながら、あるいは夫や妻に愚痴、子供に辛く当たりながら、暮らしの営みをしているのではないかという印象を抱いてしまった。

 

人は一人では生きられないが……

 

結論からいえば、人は一人では生きられないだろう。

必ず誰かの協力があって、あるいは誰かの幸せを願う想いがあって、守られて社会の中で暮らしている。

それが決して直接的なものでなくとも、間接的に助けられて暮らせている。

自分だけで立派に自立して生きているなんていう風に思うのは傲慢だと私は思っている。

 

夜中の2時に歌を歌いながらお姉さんと一緒に帰った、そのお客の残したその天ぷらやチューハイ。

そして、飲み過ぎたのか知らないけど、トイレでゲロ吐いて、それを掃除している人誰だ?

時給1,200円くらいで深夜バイトしている人だよ、昼夜逆転生活してる人だよ。

 

糞暑い炎天下の中、ぷんぷんする肥料の販売とゴミだしやら雑用やらホームセンターでやっている人誰だ。 

大の大人の女性が、介護業界で泣きながら老人の介護しているの何でだ?大人として情けないと言った経営者を知っているが、大の大人の女性が泣いてしまうくらい辛かったんじゃないのか。

でも暮らせてゆけるのは、対価や評価が貰えるのは与えてくれる人や、会社という時と場があるからだ。

 

社会人や公務員が起こした不祥事を外部に漏らさない様に、その身内や組織がポジショナリティを失わないように、必死に黙秘しながら守り続けている人誰だ?

みんなが黙って守り続けようとしているものごとは何だ?

それはきっと、身近なのでいえば大切な子とか、共に過ごしてきた思い出なんかじゃないか?

 

わるい意味で仲のわるい両親や、不都合なリアルを必死に隠して家庭を守ろうとしている子はどこかに居ないだろうか?

いわゆるそれは、かつて流行ったアダルトチルドレンという名の状況そのものだ。

それはきっと、自分を産んでくれた親に対する無意識的な感謝のつもりではないだろうか?

 

人は一人で生きているなんて思ってしまうのはきっと傲慢だ。

そんな中でも独りで生きている人をみると、思わず頭を下げたくなる。

独りで生きている人って誰かって?

上で述べたような人たち、そしてそれは少なくとも「ほぼ全て大人」だと思っている。

 

守りたいもの、そして……

 

みんなとは言わずとも、人というものは誰かを何かを守りたくて、それは例え役に立てるとは思ってはいなくとも、何かを、紡ぎ続けたいと無意識に思っている。

例えば、私がブログを書くことだけではなく、あらゆる活動、特にボランティアでやっていることは、全てそういう想いが根本動機になっているんじゃないかと思う。

人が生きるということは、必ず「何かを保存したい」という欲求に繋がっているのだ。

それが、音楽や文筆、そして絵画であろうとも、実際のコミュニケーションや行動であっても、何らかの想いを、それは生命を媒体(メディア;ものごと)に載せて伝えようとしているのだ。

であるからに、「守りたいものがある」ということは、それはつまり「生きたい」ということにとても似ているような気がする。

 

生きるということは「行動」するということだと、前回の記事で述べた。

哲学的にいえば、「事物」として表現することだといえる。

そしてその根本となる収束元の正体は必ず「死」なのである、あるいはこれから産まれて来る子どもたちなのだ。

生きるということは、実は死に向かうということに似ている。

そして、裏を返すならば、死するということは実は無に向かうこと似ているのである。

 

振り出しに戻って

 

最初のDJあおいさんの記事に述べられているようなことは親の視点、そしてリアルとしての回答としては事実だから否定のしようがない。

しかし、金を貯めろといっても世の中に出回っている金の量はある程度、決まっているし、誰かがそれを大量に貯めこんでいるし、そして現在の労働状況を考えれば、かなり過酷な状況の中でそれを実現してゆかなければならないと思う。

手段や倫理等を選ばなければ、金を稼ぐことはある程度は誰だって出来る、健康ならば。

しかし、私は経済と労働は相関はあっても、比例はしないということに既に気付いているので、もっと別の視点からのアドバイスやアプローチが必要ではないかと思う。

 

自分一人で生きてゆける、自分の家族だけのためだけに生きてゆくなんて思うなよ、と。

そんなことが平然といえるのは、前を歩いている人が、影で想い支えてくれている人がいるから、そして何よりも「運」というものが実に大いに働いているということを決して忘れてはいけないだろう。

 

極論すれば、同じ系(団体や組織、社会)の中で「自分一人」で生きてゆくというのは、全ての人を犠牲にしてゆくということだ。

それはきっと、「自分独り」を畏れた人間の言い訳にしか、今の私には聞こえない。

 

「一人ひとり」を支えているのは、きっと「独りひとりの人たち」ではないかと今では思う。

Yohta KOBAYASHI (C) 2016-20XX